時は大正8年(1919年)の初夏の頃、拓殖大学学長となった後藤の新平の家を賀田金三郎が訪問してきた。
久しぶりの再会を後藤は全身で喜びを表すかのように賀田を迎えた。
「賀田君、少し顔色が悪い様だが、朝鮮の方は順調に進んでいるかね」と尋ねると賀田は、朝鮮における事業の進捗状況を後藤に報告した。
しばらくして後藤が「賀田君とも長い付き合いになるなあ」と言うと、「閣下とは台湾時代に初めてお会いして以来、いつも大変お世話になっております。」と賀田は答えた。「台湾時代かあ。台湾での8年間は長い様で短い8年だったよ。あまりにも色々な事があり過ぎた8年だった」と感慨深そうに言った。
賀田は、「台湾時代、よく台北も賀田組の事務所で、仕事が終わると、台湾統治初期の話が聞きたいと、わが社の若い連中が集まりまして、話をしたものです」と返答すると、後藤は興味深そうに「どんな話を聞かせてやったのだね。」と尋ねた。「土匪問題、台湾日日新聞社設立、台湾上下水道整備、台湾銀行、驛傳社等々、やはり閣下が民生長官をなされていた頃の話が中心となりました」と賀田は少し微笑みながら答えた。
「土匪問題は苦労したなあ。いや、他の問題も苦労の連続だった。私が初めて台湾の地を踏んだ時、あの劣悪な衛生環境を何としてでも早急に改善しなければと思った。
バートン先生を台湾に招聘した。先生は着任早々、台湾北部から調査を開始され、明治31年には、「台北市区改正計画」に沿った「台北近代水道計画」を策定された。当時は、人口統計資料や地形図、降雨記録、河川流量記録、洪水記録等あらゆる基礎資料が無いなか、調査等は難航されたと思う。台北市域が平坦であるが故に、先生もかなり悩まれたそうだ。海外への視察も行い、最終的に、シンガポールの下水構造を援用された。
ここが、台湾総督府と同じ様に、財源不足だった東京との大きな違いだった。東京は、上水道が優先されたが、台北では既存の地下水や都市環境等を勘案し、道路の拡幅工事と並行した下水道整備を優先するという計画を提示された。正に、当時の台湾が抱えていた様々な問題点に優先順位を設け、喫緊の問題解決をするための最善策を導き出されたわけだ。しかも、財政も考慮して。清朝時代から利用されていた井戸を全面活用することで、上水道にかかる資金を抑え、下水道に重点的に充てる。すなわち、まずは埋設管ではなく開渠の排水路にし、下水を市外に排水する緊急対策を行い、その後、時間をかけて恒久対策を行う。これならば、資金が乏しくても短期間で悪疫の病原を排除できる。つまり、台北の都市計画は、都市の衛生改善を目的とした対策だった。
台湾初の水道は、明治29年(1896年)に完成した淡水水道だが、これは日本本土を含めても 5 番目という早さだった。
私はこのまま台湾の上下水道事業は順調に進むと少し安堵していたのだが、まさか、バートン先生がお亡くなりになるとは思ってもいなかった。あれは相当堪えたよ。何せ、私が先生を台湾へと推挙したのだからね。」と言って後藤は目頭を押さえた。
賀田は「確かに、バートン先生の死は非常に衝撃を受けましたが、しかし、先生の魂は先生がお亡くなりになっても台湾で生き続けましたよね」と後藤を気遣いながら言うと、後藤は、「そうだな。浜野弥四郎先生がバートン先生の遺志を継いで、見事に台湾の上下水道整備を成し遂げてくれた。
浜野先生は調査を続行され、基隆、台中、高雄、さらには、台湾東部のほぼ全域で調査を行った。そして、明治41年(1908年)年に基隆、明治42年に高雄、明治44年に嘉義と各水道工事が着工し、明治43年には、台北上水道が竣工した。丁度この頃、総督府土木課に八田與一君が着任して、2年間ほどだったか、浜野先生の部下として上下水道の計画を推進してくれた。
そうそう、この台北上水道だが、これは凄かった。私も視察に行ったが、驚いた。取水口・ポンプ室・配水管・浄水場および貯水池を僅か2年ほどで完成させ、1日2万トンの飲料水を12万人に供給したのだからね。この施設は東京や名古屋よりも早く、鉄筋コンクリート製の近代的上水道給水方式だったからね。
あと、台南水道。台南水道は当時の人口6~7万人を配水対象としていたのだが、計画規模は10万人であった。曾渓水から取水し、当時最新の急速濾過方式が採用されたのだよ。あれは、浜野先生の台湾での集大成とも言えるだろう。
バートン先生、浜野先生は、正に「台湾水道の父」と言えるだろうね。」と後藤は眼を細めながら話した。その顔には、亡きバートン先生への尊敬の念が読み取れた。
賀田は以前から知りたかった事を後藤に尋ねてみる事にした。
「閣下、一つご教示頂きたいことが有るのですが、清朝時代、あれほどの力があった清朝が何故、台湾の水道事業を手掛けようとしなかったのでしょうか。確かに、当時の清朝は、台湾はお荷物としか思っていなかったようですが、台湾国内で、その様な動きは無かったのでしょうか。」と言い、後藤を見た。後藤は「そうなのだよ賀田君。私もそれが不思議でならなかった。聞くところによると、清朝時代の初代台湾知事に劉銘伝という人物がいたのだが、本国は台湾を厄介なお荷物と思っていたようだが、劉は違った様だ。彼は、税厘総局、鉄道局、官医局等 30 余りの機関を作った。これらの機関の多くは、日本の台湾総督に引き継がれているのだよ。
しかし、当時の改革は、清本国からの経済援助が途絶えたことや、急激な改革に伴い民衆の負担が急増し、遂に、反乱が行った。(1888年の施九緞の乱)さらには、彼自身が病気を理由に台湾を去ったこともあって、中断されてしまった。その一つに水道事業もあったようだ。
彼は、1887 年に「清道局」を創設し、台北で深井戸を掘削して地下水を開渠で配る事業を計画したのが、財源不足で計画は頓挫している。この井戸掘削では、日本の技術を導入するために、清に留学していた七里恭三郎が招聘されたそうだ。
しかし、考えてみたまえ。我が日本は、バートン先生や浜野先生が3 年かけて調査し、海外にまで視察して台北の都市計画を立てたのに対して、清は衛生工学専門でもない留学生に頼り、深井戸による前近代水道を台北で構築しようとしていたのだから、お粗末な話だよ。
ただ、浜野先生は、台北の市区改正で片側 3 車線道路が建設できたのは、劉が軍事施設を根本的に破壊して、その石材を下水道設備に転用しようとしたためだと評価されていたよ。
ただ、劉銘伝の改革には、財務面で、日本による台湾水道の開発と共通しているところがあった。彼は住民自己負担の原則に立ち、新事業を起こすと同時に、租税を整理して新たな財源を作っていた。
これは、本土から切り離した自立した台湾という考えから行われていたと思う。この考えに基づき、台湾で初となる鉄道や福建との電信等多くの画期的な事業も進められたのだろう。 」と相手を否定するだけではなく、優れているところは相手がだれであれ認めるという後藤らしい意見だった。
賀田は、「閣下はバートン先生のご尽力で、内地と変わらない早さで水道整備を進展され、台北では衛生改善を基盤に据えた都市計画まで併せて行われました。単純に水道を整備する事業としてではなく、給水、排水、下水処理といった、上下水道並びに都市計画を一体で見て、経済性や地域性、緊急度を踏まえ、効果的かつ実現可能性の高い公衆衛生政策を実現されました。内地の他都市でもここまで包括的な視点で公衆衛生政策が実践された例はございません。」と率直な感想を述べた。
賀田は決してお世辞を言う人間ではない事を後藤は賀田との長年の付き合いで良く知っていただけに、賀田のこの言葉を素直に受け取り、喜んだ。
【参考文献】
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稲葉紀久雄 『バルトン先生、明治の日本を駆ける! 近代化に献身したスコットランド人の物語』
稲葉紀久雄 『都市の医師―浜野弥四郎の軌跡』
臺灣水道研究会. 1941.『臺灣水道誌』台湾総督府内務局
自來水事業処台北自来水事業処. 2008.『市定古蹟「草山水道系統」建築物及設施 修繕維護調査規劃報告書』第二章
伊藤潔 『台湾』
陳育貞,呉亭樺.2018.「台灣自來水産業文化的多元價值」臺灣建築史研究会
劉俐伶 「臺灣日治時期水道設施與建築之研究」 國立成功大學建築學系
陳皇志 「臺北水道建設與近代殖民都市發展(1895-1945)」國立臺灣師範大學臺灣史研究所
黄俊銘 「台湾におけるバルトンの水道事業について」『土木史研究 第 10 号』
吳世紀.2017.「臺灣現代化自來水建設之開拓者 都市的醫師-濱野彌四郎」『自來水會刊第 36 卷第4 期』中華民國自來水協會[中華民国水道協会]
越沢明 「台北の都市計画、1895~1945 年―日本統治期台湾の都市計画」日本土木史研究発表会論文集
呉文星「東京帝国大学の台湾に於ける学術調査と台湾総督府の植民地政策について」『東京大学史紀要』東京大学史史料室
石丸 大輝 日本による台湾水道開発の歴史
―明治政府が欧米から吸収し、日本と台湾で応用した考え方 JICA フィールド・レポート No.7 2021 年 9 月