2024-08-01から1ヶ月間の記事一覧
第五回内国勧業博覧会への台湾としての参加が決まり、台湾総督府、台湾協会はその成功を目指して日々、努力を重ねていた。しかし、後藤新平が最も頭を痛めていたのが肝心の台湾漢人達の無関心さであった。 その様な状況の中、賀田金三郎が中心となり、1902(…
台北市書院街にある賀田組本店2階の広間には、今日も、賀田金三郎の台湾統治初期の話を聴きたいと集まった、賀田組若手従業員達でいっぱいだった。 第五回内国勧業博覧会についての話を続けている賀田は、「ではここで少し休憩時間としよう」と言った。そし…
後藤新平の台湾統治政策の中で、後藤自身が最も頭を痛めたのが、内地人の台湾に対する誤解、すなわち、正しく台湾の現状を認識していない内地人の見解を改めるにはどうするべきかと言う点であった。そこに政府より誘致のあった第五回内国勧業博覧会への台湾…
「しかし、実際には後藤長官の思惑とは違う方向に進んでしまったのだよ。」という賀田金三郎の発言を聞いて、それまで、賀田組若手従業員最年少の森の「百聞一見に如かず」という発言に大笑いしていた従業員達が静まり返った。 賀田はゆっくりと話し始めた。…
「社長、第五回内国勧業博覧会ってどんな博覧会だったのですか?」と賀田組若手従業員の中で最年少の森が賀田金三郎に尋ねた。 これに対し賀田は「第五回内国勧業博覧会は明治36年(1903年)3月1日から7月31日まで、大阪の今宮で開催された博覧会だよ。この…
日本出張から台湾へ戻った賀田金三郎。当時の賀田は、台湾のみならず、日本での様々な事業への投資も行っており、その打ち合わせのために日本へ出張する事も多かった。日本に戻った際には、麻布の邸宅に滞在していたのだが、彼が麻布に邸宅を設けたのは、後…
今日も台北の賀田組本店2階には、若手従業員達が集まっていた。彼らは社長である賀田金三郎から、台湾統治初期の話を聴くことが楽しみで仕方なった。自分達の知らない時代、しかし、つい先頃の時代。そして、その時代があったからこそ、今、自分達は台湾の…
新渡戸稲造に対する曽禰荒助からの3度にわたる熱い要望に応えるべく、新渡戸はアメリカを後にして一旦、日本へと戻った。 日本へ戻って来た目的は、丁度、東京へ戻っていた後藤新平との面会であった。この面会は後藤から切望したものであった。 「さて、アメ…
新渡戸稲造の母親との悲しい別れについて話し終えた賀田金三郎。その話を聴いて、自分の生い立ちと重ね合わせ涙する賀田組若手従業員の森。その森を慰める菊地やその仲間達。賀田自身も自分の母との別れを思い出し、悲しい気持ちでいっぱいであった。 台北の…
新渡戸稲造という名を聞いて真っ先に思い出すのが旧五千円札の肖像ではないだろうか。しかし、「では、新渡戸稲造は何をした人ですか?」と聞くと、「武士道を書いた人」と答える人が多いと思うが、それ以外に何をした人かを知っている人はどの程度いるだろ…
ここは台北市書院街にある賀田組事務所の2階。賀田組台北事務所(本店)は、総督府からも近く、民政長官である後藤新平の官舎にも近い場所に設けられていた。 事務所2階では、社長である賀田金三郎から話が聴きたいという事で、若手従業員達が集まっており…
「福建省、江西省を貫く大鉄道計画が必要だと言っておきながら、調査までさせて、最終的に資金不足だから計画中止って、やっぱりどう考えても納得できないなあ・・・」と賀田組若手従業員の中で最年少の森の腹立ちは収まる様子が無かった。 賀田金三郎は森に…
「私と同郷の長門国厚狭郡千崎村(現、山口県山陽小野田市)出身で、私より2歳年上にあたる長谷川謹介先生。長谷川先生の台湾でのご活躍は以前にも話したが、台湾鉄道の父とも言われる偉大なお方だ。 長谷川先生は、大阪英語学校にご入学後、外人経営の神戸…
賀田組事務所2階に集まっている賀田組若手従業員達。目的は、自分達が知らない台湾統治に関する様々な話を聴くことであった。 話をするのは、賀田金三郎。賀田組の社長であり、台湾の近代化に大きく貢献した人物であり、また、台湾初の日本人移民村賀田村を…
明治37年(1904年)に後藤新平民政長官は愛久澤直哉以下元鉄道部員送別晩餐の席上で、「抑本島ノ位地タル帝国南進ノ「ステーション」ニシテ之ガ統治上ニハ對岸及南洋諸島經綸ノ必要ヲ生スルハ自然ノ理ナリ 就中福建省不割譲及鉄道布設ニ関スル約定ノ如キ……之ガ…
仕事が一段落つき、今日も台北市書院街の賀田組事務所2階には、若手従業員達の間では兄貴的存在の菊地、菊地より2歳年下で、菊地の補佐役的存在の青木、そして、中学を卒業したばかりの最年少の森をはじめ、大勢の若手が集まっていた。 彼らの仕事終わりの楽…
賀田金三郎は、賀田組若手従業員の中でも最年少の森からの「義和団事件とは?」という質問の答えを話し始めた。 「1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった第二次アヘン戦争後に締結されたのが、天津条約。この条約で、清朝…
「台湾事業公債法に基づく特別事業は、当初の計画を上回る速さで実行されていったのだが、この時に中国本土で義和団事件が勃発したのだよ。この義和団事件によって、予想以上の臨時支出があり、松田大蔵大臣による健全財政主義によって安定していた財政状況…
暮れゆく台北の街を眺めながら「台北の街も私が来た頃に比べて随分と変わったものだ。匪賊や土匪達によって荒され荒廃していた台北の街が未だはこんなに賑わい、人通りも増え、こうやって室内から眺めていても活気が伝わってくるほどになった。これも全て、…
「日本が台湾を統治した当初は、あらゆる面で混乱期であったことは既に話した通りだが、この混乱、難題を後藤長官は「生物学の原則」に基づいて、着実に解決されていった。 後藤長官の台湾統治政策の基本は、やはり何と言っても後藤長官が台湾に赴任される2…
今日も、台北にある賀田組の2階では、大勢の賀田組若手従業員達が集まり、社長である賀田金三郎の話を聴くことを楽しみに待っていた。 そこに現れた賀田。最前列には、若手従業員の中で最年長の菊地と最年少の森が並んで座っていた。菊地は彼らの兄貴的存在…
「日本における女子教育の目的の中に、良妻賢母的女子教育観というものがあり、これは台湾でも推奨されている。台湾教育会雑誌でもこの良妻賢母については何度も記事が掲載されている。さらに、「健康なる子供は、健康なる母より生まれる」という考えも強く…
「さて、後藤長官の台湾における教育方針について既に話した通りだが、もう一つ、長官にはお考えがあった。それは、台湾人女子に対する教育だ。先ほども申したように、中華思想の悪しき慣習とでも言うか、女子に対しては教育は不要という考えを是正させ、台…
台湾統治を成功させるためにあらゆる方面で力を発揮する後藤新平。児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政長官がそれまでの台湾を大きく変革し、近代化へと導いた。それを陰で支え続けた人物の一人が、実業家の賀田金三郎。後藤からの信頼を勝ち取り、後藤の勧め…