jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 潮汕鉄道最終章 長谷川謹介と佐藤謙之輔

ここは台北市書院街にある賀田組事務所の2階。賀田組台北事務所(本店)は、総督府からも近く、民政長官である後藤新平の官舎にも近い場所に設けられていた。

事務所2階では、社長である賀田金三郎から話が聴きたいという事で、若手従業員達が集まっており、日本が台湾を統治した当初の話を仕事が終わってから賀田を囲むことが恒例になっていた。

「さて、いよいよ「潮汕鉄道の建設が始める訳だが、実は、その直前、後藤新平長官と長谷川謹介先生との間でちょっとした事件が起こったのだ」と賀田が言うと、若手従業員の中では中堅クラスで、最年長の菊地の弟分的存在である青木が「えっ、事件!でも、長谷川先生は後藤長官からの信頼も厚く、長谷川先生も、潮汕鉄道建設事業は必要不可欠だとお考えになっていたのに、事件が発生したのですか」と驚いた口調で尋ねてきた。

賀田は「長谷川先生は普段は非常に口数の少ない、温厚な性格をされた方だったのだが、あることが原因で激高されたのだよ。そのあることとは・・・・・」と言うと、窓の外を眺めながら遠くを見た。

 台湾総督府民政長官執務室からガラスが割れる音がした。その音を聞いた秘書官が慌てて執務室に入ってくるとそこには、後藤新平の前で仁王立ちした長谷川直哉が居た。手からは血が流れており、足元には割れたグラスの破片が散乱していた。血が流れる長谷川の手は小刻みに震えており、その後ろ姿からも長谷川が激怒していることが伺い取れた。

秘書官に対し後藤は「何でもない。直ぐに出ていきなさい」と言わんばかりに目配せした。秘書官は一礼して部屋を出ていった。後藤は長谷川に対し「長谷川さん、落ち着いてください。まずは座ってください。座って話をしましょう」と長谷川に対して言った。長谷川は興奮冷めきれぬ状態ながら、後藤に促されソファーに座り直した。

 実はこの事が起こる数分前、長谷川は後藤に対し、

「本件は総督及び長官の内旨を含み数か月に亘り愛久澤氏が苦心慘澹して獲得した包辨契約であって、併も内容は実に完整無缺と云ふべきに、今に至り閣下が援助を躊躇せらるるといふのは如何次第であるか不肖の実に訝みに堪えざる所である。かく取扱はるるに於いては結局独り愛久澤氏を憤死せしむるばかりでなく,不肖の如きも素々内地に於ける幾多関係事業を放し擲して遠く台湾に微力を尽くさんと決意するに至った次第は閣下の南清経営の大抱負を協賛せんが故であったのであり,又多数部下も不肖と同じく其意を体して粉骨碎身しつつあるのである。然るに今に至って空しく此好機を逸せらるるとなれば之は不肖の到底よく忍び得ざる所なるが故寧ろ自決するを然るべしと思ふ。」と訴え、手に持っていたグラスを握りつぶしたのであった。

 何故、長谷川はここまで激怒し、何故、後藤はここまで話が進んでいるのに決定を躊躇(ちゅうちょ)しているのか。そこには後藤なりの理由があった。

 当時の華南一帯は、政治経済全ての面でイギリスの勢力が一番強く、列強国の中でその右に出る者はおらず、しかも日本は最も劣勢であった。児玉源太郎総督は、もしこの鉄道建設に加わることが出来れば、将来的に日本が華南地区に進出する際の拠点になると考えており、この重要な任務を後藤新平民政長官に一任していたのである。

 後藤は先にも述べたように、厦門三五公司の愛久澤直哉と連携し、鉄道事業を如何にして勝ち取るかを検討し、愛久澤は秘密裏に澳門との間を行き来し、台湾籍の林麗生を通して張京堂(張煜南)またはその代理人と交渉を重ね、鉄道の建設、管理、請負に関して契約締結を実現させた。

 明治36年1903年)12月6日に張京堂(張煜南)は南洋から香港に戻り, 愛久澤と船内で契約を締結した。その後愛久澤は契約書を直ちに台湾に持ち帰り後藤を訪ねた。後藤はこの意外な成功を非常に喜び、立ったまま契約資料を読み、大声で「我南清経営の根拠成れり」と叫んだ。その声は廊下まで響いていた。

後藤にとっては、この鉄道事業が台湾を拠点とした南進政策実現のために非常に重要であると思っていただけに、この契約締結はそれほどまでに嬉しい出来事であった。

「この計画さえ実現すれば、これまで台湾を軽視していた内地の連中も、台湾がどれほど力があり、重要な拠点であるかを認識するはずだ。」と後藤は心の中で叫んでいた。

 そんな後藤ではあったが、官僚という立場を考えた場合、手放しで喜ぶことが出来なかった。それは、時期的に日露戦争寸前であり、明治37年6月に満州軍総参謀長を兼任する事が決まった児玉源太郎は日本に戻り準備に追われていた。後藤としては、この鉄道事業を進めるに当たり、最終的に児玉の決裁を仰ぐ必要があったが、多忙を極める児玉総督を煩わせたくないと思い、本事業を進めるべきか躊躇していた。特に、この事業を進める事で、イギリスとの関係を悪化させ、外交上悪影響が出ることを懸念していた。さらには、資金を融資する側の銀行は、この鉄道の将来を有望視しておらず、出資に難色を示していた。

この為、後藤氏は愛久澤からの計画実行のための援助することに対し、決断を下すことが出来ずにいた。この態度に長谷川が前述の如く激怒したのである。

 「後藤長官は長谷川先生の強い対外開拓思想を感じ取られ、すぐさま児玉総督に報告され、児玉総督も援助を許可され、手続きを済まされた。これは余談ではあるが、後日、とある宴会で後藤長官と長谷川先生が同席された際に、後藤長官が長谷川先生に対し『今日のコップは特別誂えだから、なかなか壊れないよ。』と冗談を言われ、長谷川先生が苦笑いされたそうだ。」と賀田が言うと、集まった全員が大笑いした。

 賀田は話を続けた。「このように、華南鉄道調査から始まり、潮汕鉄道事業の基礎を築いた長谷川謹介先生、菅野忠五郎技師、津田素彦技師をはじめ、明治37年5月から長谷川先生の要望で、台湾総督府鉄道部の佐藤謙之輔技師、津田素彦技師、新見喜三技手、芦田信一技手及び技術員、事務員、工夫、職工等19名のチームを、愛久澤氏の三五公司に派遣し潮汕鉄道建築の支援にあたった。彼らが出発する際には、児玉総督自らが壮行会を開催され、全員を総督官邸に招かれたそうだ。

ちなみに、佐藤謙之輔技師は山口県の士族の出身で、大阪英語学校と鉄道工技生養成所では長谷川先生の後輩にあたる方。卒業後は日本国内の鉄道建設を担当され、白河‒宇都宮区間に配属され、明治30年(1897年)には日本の中国鉄道工務課長に昇進された。長谷川先生が台湾へ移られ技師長になってまもなく、佐藤技師も助手として来台され、明治33年(1900年)に台湾総督府鉄道部工務課技師となられ、3年後には鉄道部打狗出張所所長となられた方で、当時鉄道部のなかで重要な人材のお一人だった。

 潮汕鉄道建設を支援するため,佐藤技師等4人のお方は、明治37年(1904年)5月に台湾総督府鉄道部を停職となり、長谷川先生から三五公司の潮汕鉄道建設計画の支援を命じられた。これは極秘任務であったため、台湾総督府は内閣への稟議の中では、「當府道部技師佐藤謙之輔同津田素病等ノ当分ノ見込ナク事務上差支ニ付文限令十一條一項四号ニ依リ休職ノ命ニ付及稟議候。」と公文書上では病気の為の休職となっている。(後に復職となっている)

一行は5月末に汕頭に到着し,潮汕鉄道建設部を設置,佐藤技師を潮汕鉄路公司技師長とされた。6月より線路の測量に着手、1か月余りかけて測量を終え、平面・断面の2種類の実測図を会社に提出。同社社長であった張京堂(張煜南)氏の承認を得た後、土地買収を始めると共に、日本人技師が建設部において詳細な設計図を作成し、工事再委託の準備を始められた。

翌年の明治38年(1905年)3月には、長谷川先生が愛久澤氏等と一緒に汕頭に赴き、自ら測量船を視察され、設計上の各項目について詳しい指示を加えられ、3月24日に台湾に戻られた後、直ちに建設計画を作成されたのだ。」と言うと、「社長、山口県からは社長や長谷川先生、佐藤技師と、台湾の近代化に大きく貢献された方が多数輩出されているのですね。」と、自分も山口県出身である菊地は誇らしげに話した。

 

筆者としては、山口県関連のデーターを様々見てきたが、残念なことにこの21世紀の世の中では、賀田金三郎、長谷川謹介、佐藤謙之輔といった台湾近代化に大きく貢献した、いわゆる縁の下の力持ち的存在の人物については、地元でもあまり知られていない事を悲しく思うばかりである。佐藤謙之輔氏は、後に、八田與一氏の事業にも大きく貢献をしている人物である。

 

 

佐藤謙之輔 鉄道部技師任命文書

 

 

佐藤謙之輔 鉄道部休職文書

 

 

佐藤謙之輔 鉄道部復職文書

 

【参考文献】

「潮汕鉄道ニ關スル清国公文書類寫送附ノ件」(『日本外交文書』第38卷第2冊(原文書:明治38年(1905)9月2日,第25冊第1080号)

津田素彦 「潮汕鉄路建設顛末」

鉄道建設業協会 「日本鉄道請負業史」

「潮汕鉄道敷地ノ測量購入進行況等報告ノ件」(『日本外交文書』第37卷第2冊(原文書:明治37年(1904)10月31日,第19冊第810号)

「鉄道技師佐藤謙之輔外一名休職ヲ命セラル」(『台湾総督府公文類纂』明治37年(1904)5月21日,9卷1019冊64号

高野義夫 「旧植民政人事総覽」台湾編1

蔡龍保 「長谷川謹介與日治時期台湾鉄路的發展」(中文)

長谷川謹介 「汕頭潮州間鉄道路踏報告」