jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 混乱を招く二大紙

日本が台湾を統治してからは、台湾島内では抗日武闘闘争が続き、台湾総督は武力で鎮圧したが、台湾統治を成功させるには武力による鎮圧のみでは不十分で、人心掌握が重要であったが、初代台湾総督の樺山資紀総督が台湾総督に就任した頃は、台湾総督府の意思の伝達手段がなかった。広報という形で伝達するのが一般的ではあるが、当時の台湾総督府の財政状況から考えると、台湾全島隅々に至るまで広報を配布するというのは厳しい状況であった。

 「君たちは、山下秀實氏を知っているかね」と賀田は賀田の話を聞きたいと集まっていた賀田組若手従業員達に問いかけた。「もちろん知っております。社長が大倉組にいらっしゃるときに立ち上げた驛傳社の社長をされていますよね。」と青木が得意げな顔で答えた。

賀田は「そうだ。あの山下氏だ。彼と私とは、驛傳社のみならず、多方面で一緒に事業をしている。その山下氏は、薩摩のご出身で、陸軍に入られた後、熊本県警部長、熊本県書記官、靜岡・京都・大阪府警部長を歴任され、樺山資紀総督が台湾にご着任された時には、台北内地人組合長をされていた。その山下氏が、明治29年(1896年)6月17日に「台湾新報」という台湾統治後初の新聞を創刊されたのが、そこに総督府令を掲載することを樺山総督に提言されたのだ。

実は総督府では、同年6月5日に、総督府民政局文書課の草場謹太郎が「目下緊要」の案件である広報媒体 (台湾総督府府報)の発行を立案しており、広報媒体の確立は急務であると樺山総督も思っていた。そこで、総督府は経費削減と情報伝達の必要性を考え、山下氏に委任する事になったのだ。

台湾新報はその後、在台日本人のみならず、台湾人に対しても台湾総督府の意向、決定事項等々を伝えるための総督府広報の代替手段となったのだよ。」と言い、集まった従業員達を見渡した。

すると菊地が「山下さんは薩摩のご出身とおっしゃいましたが、そうすると、樺山総督とは同郷という事ですね。」と言った。

「そうだ。そこが一つ問題ではあった」と賀田が言うと「問題?」と菊地は首を傾げた。

「実は、樺山総督から二代目総督の桂太郎総督に代わった時のことだった。明治29年(1986年)6月から8月にかけて台中県雲林で、日本陸軍による地元住民の虐殺事件(雲林虐殺事件)が発生した。政策当局者は台湾新報は和文欄と漢文欄しかなく、欧米諸国への情報発信の不足を感じ、さらに正しい情報を提供する必要性を改めて認識することとなり、新たに対外情報発信媒体の成立を考えるようになったのだ。その事を知った桂総督と同郷(長州)の河村隆実氏が桂総督に対して、 「台湾ニ於ケル施政上ノ機関トシテ完全ナル日刊新聞ノ発行ヲ致スベキ必要有之」という主旨の「台湾日報」発行計画に関する請願があり、川村隆實、林謙吉郎両氏が経営に関わり、内藤湖南氏を主筆とする「台湾日報」が創刊された。台湾日報には英文欄も設けられていたのだ。これにより、台北には台湾言論界の代表として二紙が存在する事になったのだよ。

 この二紙には違いがあった。「台湾新報」の記事は、総督府の意見を代弁し、その政策を擁護する特徴があったが、「台湾日報」は、総督府の資金援助をうけながら、在台民間日本人の意見を掲載するという姿勢をとっていた。

 しかし、二紙は感情面、商売面からか、または、軍政時代の影響を受けてか、互いに、し烈な競争を続けていた。時には、記者同士の乱闘も起きるぐらいだった。新領土における新聞の使命を完全に忘れてしまったのだよ。この様な事態は、最終的には総督府の統治施政上にも悪影響を及ぼすことになり、結果的には、台湾近代化が遅れることにも繋がる。

私が思うに、その根底にはやはり、薩摩と長州の派閥争いがあったと思う。」と賀田は顔をゆがめた。

 「そういえば、今は、台湾新報も台湾日報もありませんよね。」と青木が言うと菊地は「お前知らないのか。社長の働きで両社は合併し、今の台湾日日新報が誕生したのだぞ」と近くにあった台湾日日新報を手に取って青木に見せた。

青木は菊地から新聞を受け取ると、「この新聞も社長が関わっているのですか」と驚いた顔をした。賀田は笑いながら、「そうだよ。まあ、これも後藤長官の発案から誕生したもので、私はただ、そのお手伝いをしたというだけのことだがね」と言い、話を続けた。

「後藤長官は、ドイツ、イギリスへの留学期間中に新聞を活用する事の重要性を学ばれた。特に、ビスマルクの新聞操縦は非常に勉強になったとおっしゃっていた。そこで、「台湾統治救急案」の中には、「外国新聞、例之香港「テレグラフ支那「メール」等ノ類ヲ利用シ、台湾政策ニ賛成ヲ表セシメ、之ヲ漢字新聞、又ハ台湾新聞ニ翻訳セシメ、大ニ土民ノ思想ヲ喚起スルトキハ、之ヲ化スルノ便ヲ得ベキコト」と提言されたのだ。このように、英語新聞と中国語新聞とが相互に参照し合う東アジアの言論空間を認識していた長官は、英語から翻訳した中国語の記事という迂回を経ることで、「文明国」である西洋側の発言を利用して台湾島内の人々の「教化」を構想されていた。」と言った。

賀田は児玉総督、後藤局長からまたまた大きな難問を相談されることになり、その結果、後藤新平が理想とする新聞「台湾日日新報」が誕生するのであった。(つづく)

山下秀實

国家文化資料庫より

 

 

創刊当初の題字

 

【参考文献】

*李侃会 日本統治時代初期の台湾における漢字新聞の研究 「漢文 台湾日日新報」(1905) の創刊経緯とその背景を中心に(日本マス・コミュニケーション・2014年度春季研究発表会・研究発表論文(2014年)

 

*李佩蓉  台湾における近代思想の萌芽と漢文新」(龍谷大学社会学部紀要)

 

*谷川 舜 植民地台湾にみる帝国日本の外地言論体制確立の一類型(日本マス・コミュニケーション学会・2019年度春季研究発表会・研究発表論文)

 

*台湾省文献委員会編『台湾総督府資料中訳版(第一輯)』台湾省文献委員会1992