jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 保甲条例

「後藤長官のご活躍で土匪問題は、解決へと向かったが、長官は、この重大な問題と直面している中でも、台湾近代化へ向けての足場固めを着実に行っておられた。その一つが、明治31年(1898年)に定められた「保甲条例」だ。」と賀田金三郎は集まった賀田組若手従業員達の前で語った。「保甲条例ってそもそもどんな条例だったのですか?」と従業員の青木が賀田に尋ねた。「この条例を定めたことによって、土匪問題解決だけではなく、その後の台湾近代化を実現させるためにも非常に重要な条例だったのだ。保甲条例は明治31年8月31日に施行された条例で、その第一条には、「旧慣を参酌し保甲の制を設け地方の安寧を保持せしむ」と記載されている。この旧慣とは、清朝時代に施行された「乾隆大清会典」の制度なのだが、そもそも保甲(「保甲」とは居住区の構成単位であり、10戸は1甲、10甲(つまり100戸)を1保として編成し、各甲、各保の長に責任を負わせた。)は定住社会を前提とした治安維持組織であるのだが、当時の台湾は人口の流動性が非常に高かったために、ほとんど機能していなかったらしい。後藤長官は、この制度に着目され、長官ならではの「生物学の原則」を活用し、近代的な政策にされたのだ。

 

医師出身の長官が重視されていたのは、衛生思想だが、衛生の根源は個人にあり、つまり個人個人が全員自分達で意識し、守る(=自治)ことが重要であるというお考えだった。長官が常々おっしゃっていたお言葉に「自治の尊重」というお言葉がある。このお考えの原点は、ドイツ留学期間の際に、ドイツの自治制に興味を持たれた。さらにイギリスに行ってイギリス人の衛生思想の進歩に驚かれ、イギリスの衛生制度またその自治制度とは、互いに補完し合う実情を見て、その自治に対する関心をますます深められたのだ。後藤長官は台湾社会に自治的な制度を持たせることが急務であるとお考えになり、保甲条例を制定された。

 

保甲の主要な業務には次の様なものあった。

①戸口調査

②出入者の監視

③自然災害・盗賊等に対する犯罪の警戒と捜査

④保安林の保護

⑤伝染病予防

⑥アヘンの防止その他地方の安寧保持上必要な事項等の保安警察事務

⑦公共物(道路・橋など)の清掃や簡単な修繕

⑧1909年(明治42年)より、法令その他行政官庁より発する命令の周知伝達や台湾歳入地方税その他の収入に関する書類伝達および督促業務が加わった。

 

総督府がこうした保甲・壮丁制をその監督下に置いて復活させたもうひとつの意図には、これが自治組織であるために経費を自己負担にさせることができ、警察費の節減になったのだ。

さらには、土匪鎮圧に対して、保甲制度の仕組みを上手く活用させて、住民に協力自治させ、土匪を探し出したり、逆に、土匪をかくまった際には、土匪と同罪に処すとしたのだ。すなわち、連帯責任制を非常に重視された。

この様に、保甲は治安維持や衛生事務の補助の一般行政業務を補助するという任務のほかに、総督府は保甲の協力を得て、人民生活の安定、纏足・弁髮の廃止、日本語の普及、風俗の改善、迷信の打破などの運動に活用された。保甲制度は、総督府が人員を動員するための重要な機関となったのだ。

面白い話があって、刑罰制度に苔杖刑(むち打ち刑)を存続させた。この制度は犯罪の抑止力になると共に、監獄の維持に掛かる経費を削減することにもつながった。この点が後藤長官の細部まで調査された上での優れた結果を生み出す才能でもあると私は思う。」と、賀田は自分の事に様に誇らしげに話した、

 

旧来の慣習や制度の重視、すなわち、「統治を成功させるためには現地に関する知識を精査検討し、旧慣に即応させなければならない」という方針こそが、後藤新平が大切にしてきた「生物学の原則」に基づいていると言えよう。後藤はその長い政治経歴のなかで、大規模な調査研究を一貫して重視し続けた。台湾統治においては明治34年(1901年)に臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝大の法学者、岡松参太郎や織田萬らを中心にして大規模な旧慣調査がおこなわせている。

 そのほか旧慣調査以外に後藤が積極的におこなった調査研究には統計事業がある。なかでも土地調査や国勢調査は、その最も大きな成果とされている。台湾では日本の領有以前から島民の反抗や汚職などによって正確な土地調査ができないままであったが、1898年から開始された土地調査の結果、多くの隠田の存在が明らかになり、それまでの約1.7倍 の土地を把握することになった。それと同時に、複雑に入り組んでいた土地の権利義務関係を整理することで、地租は約3.5倍の大増収を得ている。

それまで台湾では土地の所有権が二重になっており、本来の地主である 「大租戸」と、耕作権を持って小作人を使用する 「小租戸」が存在していたために、同じ耕地から二重に地租が取られていた。そこで総督府は地籍の整理のために大租戸権を買収し、土地の権利義務関係を単純化することで、課税対象者を特定することができた。そのような一連の政策の結果が地租の大幅な増収につながることになったのである。

さらに、土地調査と土地制度改革が1905年に終了した後、国勢調査が着手されている。1905年10月1日から3日にかけておこなわれたこの戸口調査が、「日本」最初の国勢調査であった。これらの調査結果から、台湾現住人口統計、人口動静統計、犯罪統計、学事統計、産業統計など各種の行政統計がまとめられている。

 「そして、後藤長官が土匪問題解決時期に手掛けられたもう一つの大仕事が言論の統一だった。ここでは、私もお手伝いをさせていただいた。」と賀田は言うと、机の上に置かれていた新聞を手に取った。この新聞こそが、総督府にとってはもう一つの大きな問題だったのだ。

 

【参考文献】

後藤新平 「日本植民政策一斑」

伊藤金次郎(1943)『新領土開拓と後藤新平

鶴見祐輔(1943;2005)「正伝・後藤新平―決定版 (3) 台湾時代」

謝宗倫 日本統治時代における後藤新平の近代化政策に見る「生物学の原則」=以日治時期後藤新平現代化政策來探究「生物學原理」(國家圖書館期刊文獻資訊網より)

野村明宏 植民地における近代的統治に関する社会学後藤新平の台湾統治をめぐって