jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 教育改革

台湾統治を成功させるためにあらゆる方面で力を発揮する後藤新平児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政長官がそれまでの台湾を大きく変革し、近代化へと導いた。それを陰で支え続けた人物の一人が、実業家の賀田金三郎。後藤からの信頼を勝ち取り、後藤の勧める台湾近代化計画実現のために奮闘した。

その賀田金三郎が経営する賀田組の台北事務所には今日も、若手従業員達が賀田の話を聞きたく集まっていた。

「君たちがもしも後藤長官の立場で、この台湾を統治していくとしたら、今まで話した内容以外に、何に手を付けるかね。」と賀田が集まった従業員達に問いかけた。各人が自分の考えを述べていく中で菊地が「教育です。」と答えた。賀田は「菊地君、それはどうしてかね。」と尋ねると菊地は、「台湾を日本が統治した頃、この台湾ではまともな教育は成されていなかったと聞いたことがあります。また、統治当初は、台湾人達は日本語も話せませんでした。さらには、台湾が日本の領土となった以上、彼らも今後、日本人として生きていく必要があります。そのためにも、日本人としての自覚を持ってもらう必要があるのではないでしょうか。」と答えた。賀田が「その通りでよ。菊地君、よく気が付いたね。」と言うと、最年少の森が「菊地さんは将来の民政長官です。」と言って、菊地の手を持ちあげた。菊地は照れ臭そうに笑った。

賀田が話し始めた。「日本が台湾を統治した頃は台湾は化外の地と言われていた事は何度か話したと思うが、そのために、優秀な人間が台湾に赴任する事は非常に少なく、後藤長官はいつも嘆いておられた。さらに、資本力の乏しさもあり、どうしても内地頼りになっていた。後藤長官は増税、経費削減などを行って台湾財政独立を目指された。

さらに、英国が植民地政策に成功している理由についても研究された。その結果が、宗教であることを突き止められた。英国はキリスト教の宣教師を上手く利用し、宗教をその地に広める事で植民地政策を軌道に乗せていた。そこで、後藤長官がお考えたのが『日本精神』を根付かせることだった。

そこでまず、後藤長官は明治天皇の下で日本が明治維新を完遂し、近代文明国家に変貌したということを宗教の代替とされた。台湾での教育精神は教育勅語に基づき、国体の尊厳、皇祖皇宗の遺訓に従うものとすることを基本方針とされた。

後藤長官は常々『台湾という地の永久確保のために、基本方針においては、同化路線に沿い、国語教育を重視し、忠誠心を強調しなければならない。つまり、文明の宣教師を以って自ら任じ文明による教育の実施が、新領土統治において欠かせないものである』とおっしゃっていた。

以前に話した揚文会開催当日、後藤長官はご挨拶の中で、台湾伝統の教育と日本の新しい教育の違いを述べられており、文明による台湾統治は、西洋各国の侵略によるそれとは全く違う事を強調された。そして、揚文会の会員である台湾の知識人達に統治への協力を求め、台湾児童の公学校入学を奨励する様に促された。

我が国にとっては、この台湾が初めての統治国となる。しかも、武力で台湾を侵略したのではなく、条約によって手に入れた場所だ。それ故に、この台湾での統治政策というのは、内地のみならず、諸外国からも注目されており、後藤長官の重圧は我々には想像できないものがあったと思う。その様な状況下で、文明、すなわち、教育による統治政策を打ち出された後藤長官のお考えは台湾を近代化させるうえでも非常に重要な政策だったと私は思っている。

確かに、当時の台湾人は、民度や文明と言う点では日本よりも劣っていた。故に、「差別統治」と言う者もいるが、当時の台湾の状況を考えると、それも止む負えない選択だったと私は考える。

明治36年1903年)、第一回学事諮問会の席上で、後藤長官は台湾教育方針について『公学校の方針は国語の普及にある。しかし、その方針は未だ研究中で、時に応じて変化するものであり、無方針主義である』と述べられている。この発言の意図は、台湾人にとって日本語はあくまでも外国語の一種に過ぎない。その外国語である日本語を普及、浸透させ、日本精神を根付かせるためには、それ相応の時間を要する。長期的な目標を立てて進めるべきであるということだ。この方針を台湾の不平等統治方針だと揶揄するものもいるが、決してそうではない。教育を通して日本精神を浸透させていくためには、時間を要するのは当然のことである。

実際、教育と言う面で一番の変革は、女子教育だと私は考えている。台湾へ来た頃、台湾人からよく聞いたのは「男女七歳にして席を同じくせず、十歳門を出ず」「男は外、女は内」という伝統的な中国規範から、女児を学校に入学させると言う習慣がなかったのだよ。その女子に対して教育の門戸を後藤長官は開かれた。これは非常に重要な事なのだよ。」と賀田は熱く語った。

すると森が「社長、教育って本当に大切なのですね。僕もしっかりと勉強しなければ」と言うと、「森君、人生は一生勉強の連続だ。学ぶと言う姿勢はとても大切なこと。台湾も後藤長官のご努力により、教育が浸透していく訳だが、それに伴い、法律を守ることの大切さ、時間を守ることの大切さを学び、近代的衛生観念が備わる。その結果、人口も増えていき、台湾経済は潤う。」と賀田が言うと森が「教育って凄いですね。僕は教育って聞くと算術や国語といった方面しか思いつかなかったけど、道徳という人間として生きていく上で大切な事も学べるのですね。」と言うと、菊地が「森、今日はなかなか冴えてるな。良い事言うじゃないか。」と森の頭を撫でた。

賀田はその様子を微笑みながら眺めていた。

年上の者が年下の者を褒め、称え、そして時には叱る。これもまた、教育が普及したおかげだと思っていた。

 

【参考文献】

後藤新平 「台湾協会学生諸君に告ぐ」 台湾協会会報第28号 明治34年1月

後藤新平 「台湾協会設立に就て所感を述ぶ」台湾協会会報第2号 明治31年11月

台湾総督府警察沿革誌(二) 昭和13年3月

「後藤長官の訓示」 台湾教育会雑誌 第27号 明治37年6月

何純慎 「後藤新平と台湾女子教育」