jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 台湾二施行スル法令二関スル法律制定の狙い

「日本が台湾を統治した当初は、あらゆる面で混乱期であったことは既に話した通りだが、この混乱、難題を後藤長官は「生物学の原則」に基づいて、着実に解決されていった。

後藤長官の台湾統治政策の基本は、やはり何と言っても後藤長官が台湾に赴任される2年前に交付された『台湾二施行スル法令二関スル法律』だが、これもまた、後藤長官が提議されたものだ。ところで、この『台湾二施行スル法令二関スル法律』を六三法と何故言うのか、君たちは知っているね」と賀田金三郎は彼の話を聴きたく集まった賀田組若手従業員達に尋ねた。しかし、答えられるものはいなかった。全員がうつむいたまま無言だった。

「実は明治29年法律第63号だったことから、六三法と呼ばれるようになったのだよ。この六三法の第一条には、『台湾総督ハ其ノ管轄区域内二法律ノ効力ヲ有スル命令ヲ発スルコトヲ得』という条文がある。私はここが後藤長官としては最も重要な部分だとお考えだったと想像する。

すなわち、台湾を実質的に内地の憲法帝国議会の枠外におき、台湾総督に事実上の立法権を与えるという事だよ。

台湾を内地とは異なる法域として形成することが後藤長官の最大の狙いだったのだろう。

民法典論争に際し発表した論文『民法出デテ忠孝亡ブ』で非常に有名な法律学者の穂積八束先生はこうした事態を指して 『台湾に怪物あり法律に非す又命令に非す律令と称して白昼公行す』と表現されている。

六三法の位置づけは内地の憲法上においても、極めて不明確なものだったのだ。

六三法は三年間の時限立法として制定されたが、期限延長の審議の度にその違憲性をめぐって帝国議会でも激しい議論を引き起こしたが、その後若干の変更が加えられつつも総督の立法権は維持されていくことになった。

台湾総督が内地の法的制限を受けることのない絶対的な権限をもつことが、台湾のあらゆる問題を解決する上で必要不可欠だと後藤長官はお考えになった。」と言い終えた賀田は、窓の外を見ながら後藤新平台湾総督府民政長官の職責を終え、日本へ戻ることが決まった日の夜の会話を思い出していた。

 「賀田君、私も台湾へ来て8年が過ぎようとしているが、この度、南満州鉄道株式会社総裁を拝命する事となり、一旦、東京へ戻ることになったよ。」と後藤は賀田に告げた。賀田は「閣下、おめでとうございます。閣下が台湾を去られることは非常に悲しい事ではありますが、我が国にとりましては、満州は台湾同様に重要な拠点でございます。特に、鉄道は台湾でもそうでございましが、産業発展、経済発展には必要不可欠なものでございます。」と言い、その後もしばらく、後藤の栄転を称えたのだった。

賀田が話し終えると後藤は、賀田との思い出を時間を忘れて語りだした。その中で、「賀田君、私が『台湾二施行スル法令二関スル法律』を作った狙いは、賀田君ならばわかるだろう」と後藤は賀田に尋ねた。賀田は、「まずは、閣下が常々おっしゃっておられた生物学の原則に従った結果だと思います。さらにもう一つ、台湾統治は軍政から始まりました。初代の樺山資紀総督は海軍大将、第二代の桂太郎総督、第三代の乃木希典総督、そして、第四代の児玉源太郎総督は、陸軍将官でした。すなわち、総督ポストが藩閥、とりわけ長州閥の既得権となりつつあった様に思われます。この事は、内地の政治家の方々、特に立憲政友会からも、異議が出されていたと聞きました。そして、台湾に内地の法制度をできる限り適用することを唱える内地延長主義を展開し、台湾を帝国議会の影響下におこうとされていたようですね。

しかし、『台湾二施行スル法令二関スル法律』の制定はそうした政党政治家による台湾への干渉を牽制、阻止するもので、言い換えれば、藩閥側はみずからの台湾支配をより確実なものにするために六三法を制定した様に思われますが、さらに、その奥に、閣下の狙いがあったと思っております。」と賀田が答えると後藤はニヤッと笑い、「どうやら賀田君はその核心部分が何だったかを見抜いているようだね。君の口からは言いにくいだろうから、私が話そう。私は東北出身の田舎者で、政治基盤は全くと言って好いほどなかった。しかし、この『台湾二施行スル法令二関スル法律』の制定によって、藩閥という巨大な政治勢力の裏支えを得られることになる。これは、政治の世界で生き抜いていく上でも重要なことだからね。

台湾をより近代化し、内地に負けない領土にすることが私に与えられた使命だった。そのためには、私の基本方針である生物学の原則に基づいた統治政策が必要だった。しかし、いくら良い事をやろうとしても、裏支えがなければ、何一つ思う様に出来ないのが、政治の世界。だからだよ、あの法律を作ったのは。」と言い、賀田を見た。賀田は黙って大きくうなずいた。

 実際、『台湾二施行スル法令二関スル法律』は、台湾統治の方針を決定づけ、歴代の総督や民政局長が成し得なかった台湾近代化への階段を駆け上がって行く事が出来たのである。

 賀田は、後藤とのあの日の会話を思い出しながら、暮れゆく台北の街を眺めていた。

 

台湾二施行スル法令二関スル法律 第一条 (国立国会図書館

 

【参考文献】

条約局法規課編 「台湾に施行すべき法令に関する法律(六三法、三一法、法 三号)の 議事録」、外務省条約局、1966年

穂積重威編 「穂積八束博士論 文集」1943年 、

鶴見祐輔後藤新平」 第一巻 第二巻

野村明宏 植民地における近代的統治に関する社会学 後藤新平の台湾統治をめ ぐって 京都社会学年報 第7号(1999)