jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 東台湾開拓と台湾初の日本人移民村開村

 「困った。誠に困った。」と台湾総督府民生局長執務室のソファーに座り、眉間にシワを寄せながら腕組みをし、口をへの字にしてボヤいている後藤新平

その前には、賀田金三郎が座っていた。賀田は「閣下、どうされましたか?」と尋ねると後藤は「明治23年(1890年)以降、日本の人口は急増している。世界主要国家の中で、人口密度はオランダに続いて高く、農民の平均耕作地は極めて狭く、生活が困窮している。そこで、日本政府は海外への移民が問題解決に繋がると考えている。日本政府は国主導型で、アメリカ、ハワイ、ブラジルへの移民政策を既に行ったが、相手国との事前の約束事が履行されず、全てが失敗に終わった。そこで、次の移民先として台湾が候補に挙がったのだが、この移民事業を民間に委ねよというのが日本政府からのお達しなのだよ。

 賀田君もよく知ってのように、台湾を日本が統治して10年足らず。内地では台湾に関する情報も乏しく、どうなるかわからない事業に投資する企業は少ない状態がまだ続いている。さらに、台湾の西側は既に、台湾人達が住んでいるので、そこに、日本からの移民を住まわせるとなると、最終的には日本国内と同じ状態を生んでしまう。そこで、目を付けたのが東台湾なのだが、清朝時代に一度、東台湾開拓に挑戦はしたが、原住民からの抵抗にあい、さらには、マラリアに苦しめられ、開拓は失敗に終わり、その後、清朝は、東台湾に対しては許可なく立入を禁ずるという場所になった。正に、未開の地、不毛の地状態なのが東台湾なのだよ。」と言いながら、再び口をへの字にして、難しい顔になった。

 賀田は「閣下、その東台湾開拓を民間に委ねるという方針はどの様な経緯で出てきた事なのでしょうか。」と尋ねると「元々、東台湾開拓に関しては次のような流れがあった。台湾総督府は、東台湾開墾に関し、最初から国家事業として取り組むにはあまりにもリスクが高すぎると考えていた。そこでまず、 明治28年(1895年)に、台湾総督府第一任民政局局長の水野遵が台湾総督府初代総督樺山資紀総督に一通の報告書を提出した。その内容を要約すると、『民間人が住んで居る場所を除く山林原野を測量した後、一旦、国有化する。その後、一定の規定を決め、内地の資本家、企業家にその土地を貸出し、この地で起業をさせる。例えば、この地で、熱帯作物(サトウキビ、樟脳、パイナップル等々)の栽培・加工を行い、輸出をさせる。』というものだ。

 この報告書を元に、台湾総督府は、明治29年(1896年)に、「台湾官有森林原野及産物特別處分令」を発布、さらに、具体的な土地処分の方法として「台湾官有森林原野預約賣渡規則」「台湾官有森林原野貸渡規則」「預約賣渡法」を発令した。

これらの条件で、台湾総督府は積極的に内地人からの投資開発を募ったのだ。投資人は、総督府へ申請さえ行えば、すぐに開発を始められるようにした。但し、条件があって、規定の期間内に開発を終える事と土地の所有権譲渡は認めないというものだ。

予約売渡許可地での土地開発期限内は使用税に関しては免税とする優遇処置も取っていた。当初の土地開発期限は、5町歩以下は4年以内、20町歩以下は6年以内、50町歩以下は8年以内、100町歩以下は10年以内となっていた。

 実は、児玉源太郎総督も私と同じ考えで、台湾に新しく移民村を作るならば、東台湾しかないとお考えで、先日、祝辰巳局長に対し、再度、東台湾の視察を実施させた。視察を終えた祝局長からの報告内容は、先の水野局長のものと似ており、『東部開墾は難問多けれど、(首狩りの習慣がある原住民が大勢住んでいる事とマラリアが横行していること。さらには、台北からの交通網がなく、港もないという悪条件だらけであった)発展すべき可能性は大いにある』というものであった。さらにだ、その報告書の最後に書かれていたのが、今から読み上げる内容なのだよ。『この開墾を実現できる人物は、賀田金三郎が最適である。』」と手元にあった報告書を読み終えると、後藤は少しズレた眼鏡を指で戻すと、賀田の顔を覗き込むように見た。

 賀田は後藤の話を聴き終えると考える様子もなく、「閣下、承知致しました。この賀田を祝局長が信頼してくださり、ご推薦して頂けたこと、とても名誉なことであります。また、内地の窮地を救うためには、東台湾開拓が必要不可欠である以上、お国のために、この賀田金三郎、東台湾開拓、日本人移民村開村を目指して、結果を残せるように致します。」と即答した。

流石に後藤もこの賀田の即答には驚きを隠せず、「賀田君、君はいつもそうやって即答するが、この件は今までの台湾日日新報や土匪問題等々とは違って、正に、命がけの仕事になる。金も莫大な投資が必要になる。下手をすると会社を窮地に追い込むことにもなりかねない。少しは考える時間が必要なのではないか。」と言うと、「閣下、私は常々、従業員達にも申して居る事がございます。それは、『人は生まれて来たからには、死ぬまでお国のために働く義務がある。』そして、『台湾で得た利益は台湾に還元する』でございます。この教えは、私の師でもある大倉喜八郎氏から学んだことでございます。東台湾開拓、どうかお任せください。」と賀田は後藤に向かって深々と頭を下げた。後藤は慌てて「賀田君、頭を上げてくれ。頭を下げるのは私の方だ。どうかよろしくお願いする。」と言って賀田の手を握り、固い握手を交わした。

 明治32年(1899年)、賀田は、「官有林野豫約賣渡規則」に従い、台湾総督府に対し、台湾東部地区開発計画書を提出、同年11月16日に総督府より開拓許可が下りた。この時、賀田が申請した台湾東部開発の総面積は、16,464甲(約16,000ha)に及んだ。これは、東部地区未開墾荒野総面積の半分以上にあたるものだった。総督府は規定により、開墾期間を最長15年と定めた。

 総督府より許可を得た開墾地域の内、「馬黎馬憩原野(現在の壽豐・鳳林の境)」の906甲(約880ha)に関し、「官有林野豫約賣渡規則」の土地支配権を「台湾糖業奨勵規則」の「無償貸付」に変更するための変更届を明治36年1903年)に総督府に申請を行い、同年6月に変更が認められた。

賀田は、「台湾糖業奨勵規則」の規定に従い、「馬黎馬憩原野」の開墾を3年で成功させなければならなかった。

賀田組として立案した開墾計画は以下のようなものであった。

 ◇開墾方面

開墾に際し、人員不足を補うため、アメリカ製の新型農具を購入し効率をアップさせる。7頭曳、3頭曳の新型農具に加え、14頭の牛と33人の労働者を投入し、3年で開墾を完成させる。

 ◇水利施設

当該開墾地域は雨が少なく、サトウキビの成長期である4月から9月は水が必要となる。そのために、灌漑用水の整備が必要である。木瓜渓(木瓜川)から用水路を引き込むと同時に、井戸も掘削する。そのために必要な人員は48名。

 ◇サトウキビ栽培

初年度(明治35年)2,184,000株  

第二年(明治36年)5,241,600株  

第三年(明治37年)3,572,400株 

の計画で栽培を行うものとする。

 ◇予算計画

総予算277,307円(現在の価値に換算すると約6億円)

 明治35年(1902年)、賀田組の台湾東部開墾が本格的に始まった。

120名の原住民を雇用し、初年度は、100町歩(約99ha)、翌年は500町歩(約496ha)を開墾した。開墾した土地に、さとうきび300町歩(約298ha)、たばこ20町歩(約20ha)、じゃがいも280町歩(約278ha)の栽培を始めたのである。

 さらに、賀田組は、それまで台湾で主流だった竹蔗(Saccharum sinense Roxb)からハワイのラハイナ地区で栽培されている品種と紅蔗を採用した。

これは、事前に賀田が新渡戸稲造に相談に行き、花蓮の土地に最も適したサトウキビを選択してもらい、その結果、紅蔗となった。

また、牛を使った旧式の圧搾作業の効率をアップさせるために、オハヨー式圧搾機を台湾総督府より借り入れた。

 賀田組は新式の製糖工場(賀田製糖所)を壽村に作り、一次精製となる分蜜、粗糖の製造を開始した。(後に、鹽水港製糖株式会社、台湾製公司へと事業は受け継がれていく)

 賀田組は、サトウキビ畑の面積も拡張した。さらには、呉全、荳蘭(現在の吉安郷宜昌村一帯)、鯉魚尾(現在の壽豐郷一帯)などに工場を増設し、赤糖の生産を行った。

当時のサトウキビ畑の面積は73甲(約71ha)、毎年の収穫量は約180萬斤(約1,080 t)、約354,000斤(約212 t)の分蜜糖を製造していた。

 当時、賀田組は、製糖業以外にも、製脳業、酪農業、軽便鉄道、そして、開墾と数多くの事業を行っており、製糖業のみに人手を割くことはできなかった。主に、農場では、原住民を雇用していたが、習慣の違いから、その管理は難しかったようだ。

例えば、賀田組の主要農場の一つ、呉全城農場では、明治37年(1904年)の段階で、農場を6区画に分け1区画ごとに、主任助手1名、日本人農夫5名、日本人女性3名、台湾人農夫5名、原住民60名を配置していたが、人手はまったく足りない状況であった。

賀田組にとっては、製糖、製脳の安定供給、開墾のスピードアップ等々、東台湾地区での事業を軌道に乗せるには、どうしても人手が必要であった。

そこで、明治39年1906年)、日本からの移民を募集したのである。これが、賀田村の開村で、台湾での日本人移民の歴史の幕開けとなる。

 実は賀田はこの東台湾開拓計画を始める前に、後藤にある事を告げていた。それは、「閣下、私が東台湾開拓を行い、日本人移民村を開村させますが、きっと、民間の力だけでは限界がくると思っております。いずれは、国営の日本人移民村を作る必要があります。そこで、私の移民村を実験台にしてください。移民に対する条件や、開墾の手順、栽培作物の選択等々、全ての情報はご報告申し上げますので、是非、それをご参考頂ければ幸いです。」と。さらに、賀田は「まずは、開墾から開始致します。移民を受け入れる以上、その移民達の生活基盤を設ける必要がございます。開墾がある程度進み、受け入れ態勢が出来た段階で、移民の募集に入ります。」とも告げていた。

 賀田は、本格的な移民募集の前に、明治36年頃より飢僅のあった福島県より家族併せて 130名を受け入れ、本島人40~50名、原住民400名と共に甘煎栽培に従事させた。明治39年 (1906年) 7月には水田耕作を計画し愛媛県より 180名を移民させた。

 日本からの移民を募集するにあたり、賀田組が提示した条件があった。以下の通りである。

(1)日本から台湾までの交通費(船賃)は賀田組が全額負担するものとする。

(2)三人家族に対し6坪の家屋を提供、さらに、30円(現在の貨幣価値に換算すると約7万円弱)を貸し与えるものとする。また、家族が1人増えるごとに、家屋は1坪増し、貸金は5円(現在の貨幣価値に換算するとで約1万円)増しとする。尚、貸金に対する返済は、最初の収穫があった後、5年以内の返済とする。

(3)最初に作付けするための種、苗は無償にて提供。農具・牛も貸し与えるものとする。

(4)最初の収穫が得られるまでの生活費1日9銭、食糧として白米一日1.26升を賀田組より支給するものとする。

(5)医療費は無料とし、死亡時には見舞金として最高50円(現在の貨幣価値に換算するとで約10万円)を支給するものとする。

(6)各戸に1反の農地を与えるものとする。このうちに関しては、5年間、収穫物の50%を納めた者に対しては10分の1の権利を与え、地主権を得られるのもとする。また、土地賃料として、毎年5石の米を納めるものとする。

(7)主要な灌漑用水路の工事、補修は賀田組が行う。各農地への引き込み用水路は、各人で行うものとする。

この募集の結果、明治39年1906年)5月、愛媛県農民50戸、福島県30戸、広島・福山11戸、合計91戸、483人が移民してきた。移民達は、呉全城53戸、164名、鯉魚尾276人、加禮宛43人と分けられた。

この様にして、台湾初の日本人移民村である賀田村がここに誕生した。

この賀田村誕生を誰よりも喜び、そして、賀田に心から感謝したのは、他でもない、後藤新平であった。後藤は、賀田村誕生を見届けて、同年10月3日に台湾を去り、東京へ戻り(9日到着)、11月13日に、南満州鉄道株式会社総裁を命ぜられる。この日勲一等旭日大綬章を賜った。同日、台湾総督府民政長官を免ぜられ、改めて台湾総督府顧問・関東都督府顧問を仰せ付けられたのであった。

 

賀田農場

芳誼会編 賀田金三郎翁小傳より引用

 

 

 

賀田製糖所

賀田金三郎研究所所蔵

 

【参考文献】

播磨憲治 知って欲しい 台湾を近代化に導いた人物 賀田金三郎

鹿子木小五郎 台東廰館内視察復命書

荒武達朗 内地農民と台湾東部移民村:『台湾総督府文書』の分析を中心