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第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

東台湾に眠るもう一つの日本の歴史 東台湾に住む原住民

東台湾の歴史を語る上で、必ず登場してくるのが原住民族。

花蓮には、6部族が暮らしており、台東には、3部族が暮らしています。台湾国内でも花蓮に住む原住民は最も多く、その文化、習慣、慣習、そして言語も各部族によって異なります。

日本が台湾を統治するまでは、台湾には共通語というものが無く、台湾人は台湾語(閩南語)、北京語を話し、客家人客家語、原住民は其々の部族の言語を話していました。今でも、花蓮には、台湾語、中国語、客家語、6部族の部族語と9つの言語が話されています。この中で、唯一、文字が存在するのは、中国語だけで、他は、文字はなく、発音のみとなっています。そのために、原住民の間では、自分達の部族の言葉を話せない若者も増えています。台湾語に関しても、同じ様に、話せない若者もいます。日本統治時代、日本語という共通語が誕生し、これによって、初めて、異なる民族間での会話が可能になりました。

 では、東台湾の花蓮、台東にはどの様な原住民族が住んでいるのか、簡単に紹介をします。

 【阿美族/アミ族

アミ族は、台湾原住民のなかで一番多い21万4737人(2020年8月の統計による)の人口規模を持つ民族集団。

居住地域は台湾の東部一帯、花蓮県台東県屏東県に亘る広い範囲。主に平地に集落を構え、中央山脈と海岸山脈(東岸山脈)の間にある細長い渓谷地域(花東縦谷)、その両端の花蓮市台東市周辺の平野部、海岸山脈の東側の太平洋沿いの平地、台湾南端の恒春半島に住んでいます。

アミ族は母系社会に近い形態であったので、家族の仕事は女性主体であり女性が責任を持つ。母系相続を行うため、家業・財産は長女が受け継ぎ、以下優先順位は女性側にあります。また姓も母方の姓が引き継がれます。

家長は女性であるが、一方で集落をまとめ上げる村長「カキタアン」は男性であり、家長の夫である男性の長老「マトアサイ」が形成する長老会議が村を運営します。集落の男性は成年式を迎え、一人前と認められれば青年団「カッパー」に入団。カッパーは細かい年齢階級「スラル」に分かれ、責任などもこの階級によって決められます。基本的に下の組は上の組に絶対服従となっています。

 

【布農族/ブヌン族

ブヌン族は、南投県信義郷、仁愛郷、花蓮県卓渓郷、万栄郷の山岳部を中心にその他高雄市桃源区、那瑪夏区、台東県海端郷、延平郷などにも分布しています。人口は約5万人。独自のブヌン語を有し、ブヌンとはブヌン語で「人」を意味する言葉です。

社会組織は、長老制度による父系氏族大家族社会で、長老者会議各家族の長老たちが集まり村の政策決定を行ないます。民族意識が強く、民族の固有言語を保っている数少ない台湾原住民族です。

 

【噶瑪蘭族/カヴァラン族・クバラン族】

カヴァラン族は、宜蘭県宜蘭市、羅東鎮、蘇澳鎮及び花蓮県花蓮市、豊浜郷、台東県長浜郷などに分布している。人口は約3,000人。元来は宜蘭県の蘭陽平原一帯に居住していたが、漢人との同化が進んだものは宜蘭県でホーロー人となり、同化を拒んで南に移動したものが花蓮県豊浜郷新社村などで独自の言語(クバラン語)と習俗を保っています。カヴァラン族は元々、海沿いを拠点とする海洋部族でした。

カヴァラン(Kavalan)とは「平原の人」を意味し、山岳部に居住したタロコ族と区別するための呼称であったと考えられています。

 

【撒奇莱雅族/サキザヤ族】

サキザヤ族は、長らくアミ族と混合されていたが、2007年1月17日に台湾の行政院によって正式に独立した民族と認められました。現在の人口は、推定で5千人から1万人とされています。サキザヤ族の祭りには豊年祭、火神祭(Palamal)などがあります。火神祭は最も重要な祭祀儀式です。

 

【賽徳克族/セデック族】

セデック族は、台湾の中部、南投県花蓮県の境界にまたがって居住しています。

日本統治時代ではタイヤル族の支族とされていました。その分類は、戦後も引き継がれたが、2008年4月23日に台湾政府より独自の民族としての認可を受け、台湾における14番目の原住民とされました。現在の人口は、推定で5〜6千人とされています。

 

【太魯閣族/タロコ族

タロコ族は、台湾東部・花蓮県北部の秀林郷、卓渓郷を中心に分布。元来は南投県仁愛郷に居住していたが17世紀に人口増加と漢人入植者の増大による耕地不足により、花蓮地区に移動しました。2004年1月14日に中華民国内政部より独自の民族としての認可を受け、台湾における12番目の原住民とされました。

「タロコ」という民族名は、彼らがタロコ渓谷流域に居住していることに由来します。「タロコ」とは彼らの言語で「連なる山々」という意味があります。

現在、約18,000人から23,000人が存在し、5番目に人口の多い民族である。

伝統的には、農耕、採集、狩猟を中心とした生活を送っています。父系小家族社会であり世襲頭目が村落を取りまとめています。

 

【卑南族/プユマ族

プユマ族は、本来は、民族としての自称がなく、構成している8つの集落(社)にちなんで「八社蕃」とも呼ばれました。8つの集落のうち、もっとも優勢だったプユマにちなんでプユマ族と呼ばれるようになり、それが定着しました。

2000年、プユマ族の人口は9,606人を数え、これは台湾原住民の総人口のおよそ2.4%であり、6番目に大きな種族です。

プユマ族の発祥には大きく2つの説があります。

 ≪巨石誕生伝説≫

現在の台東県太麻里郷美和海岸附近の山にある巨石が割れ、そこから祖先が誕生したという伝説。知本村、建和村、泰安村、初鹿村、利嘉村などに伝わり、知本村及び建和村には発祥記念碑が建立されています。

 ≪竹発祥伝説≫

南王里(現在の台東市)、檳朗村、宝桑村などに分布する発祥伝説。南王長老によれば祖先は竹より誕生したとされるが、その場所については異説が存在しています。

 

【魯凱族/ルカイ族

ルカイ族は、台東県屏東県高雄市に約12,000人が分布しています。パイワン族と類似した貴族制度を有し、会所制度を有す父系社会。昔はツァリセン族(Tsarisen)とも呼ばれました。「ツァリセン」とは「山の坂に住む人」を意味する呼称です。

 

 【太魯閣族秘話】

太魯閣族が最も多く住んでいるのは、花蓮縣秀林郷ですが、秀林郷から南に行った卓渓郷にも同じ太魯閣族が住んでいます。彼らが使う言葉は太魯閣語ですが、秀林と卓渓では同じ太魯閣語でも微妙に違いがあるそうで、会話をしていても時々、お互いが言葉の意味がわからないと言うことがあるそうです。

また、太魯閣語はフィリッピンタガログ語と極似しており、通訳なしでも日常会話ならば困らないそうです。

 

 【阿美族秘話】

台東地区に住む阿美族の葬儀の席では、参列者にカエルを振舞う習慣があります。味付けは少量の塩と香草のみ。大きな食用ガエルをそのままの姿で大鍋でゆで上げます。鮮やかな緑色をしたカエル一匹を丸ごと器に入れ、参列者に振舞います。

正に、お箸でカエルの解剖をしながら食します。

 

 【祭典】

阿美族

◎豊年祭

毎年7月中旬から9月上旬にかけて行われる、阿美族の人々の年越し、正月です。

先祖への感謝を捧げます。各部落単位で豊年祭は開催されます。

豊年祭の期間は1 日から 7 日間となっていますが、今では、ほとんどが週末の2日間となっています。

本来は、初日は女性は参加出来ないとなっていましたが、今では、期間が短いため、初日の前半のみ女性は参加出来ず、後半から女性も参加するようになっています。お祭りは、頭目の宣言から始まり、時間が経過していくごとに、踊りや歌で盛り上がっていきます。

男女ともに民族衣装を着て参加しますが、女性が掛けているカバンに微妙な違いがあります。肩紐が細い人と太い人がいますが、細い人は独身者が使用します。

昔は、男性は踊っている女性の中から、その細い紐の女性を探し、気に入った女性がいるとその紐を後ろから引っ張って、アピールしたそうです。

踊る際は全員が円形になりますが、基本的に全員が内側を向いて踊ります。円の中心には、その部落の長老達が座っており、長老に感謝と自分の成長を報告するという意味合いがあるそうです。そのため、男性たちは女性の後ろ姿を見て、好みの女性を選ぶ必要があったそうで、昔は、灯りは松明の灯りだけだったのでほとんど女性の顔は見えず、朝になって互いの顔を見て驚くこともあったとか。

元々母系家族の阿美族は、普段は女性が非常に強い立場にありますが、豊年祭の時だけは、男性は気兼ねなくお酒が飲め、女性を選ぶことも出来る日だったそうです。

 

◎捕魚祭・海祭

阿美族、噶瑪蘭族、撒奇萊雅族の3部族に共通する重要な儀式です。

海沿いに住む阿美族、噶瑪蘭族、撒奇萊雅族は海で、川沿いに住む人々は川で魚を捕まえます。彼らは魚を獲る前に、酒と肉と餅をお供えします。海の神、川の神に安全と大漁を祈ります。祭りは6 月から8 月にかけて開催され、この祭りで年越しと正月を迎えます。

昔はツタウルシの毒を使って魚を獲っていましたが、今は網などで獲るようになりました。

 「海祭」は地域によってその名称が異なり、南勢阿美族は「米拉帝斯」(Milaedis),秀姑巒溪阿美族は「古目力斯」(Kumuris),海岸阿美族は「沙滋捕」(Sacepo), 東成功的宜灣族は「米瓦拉克」 (Miwarak)と呼んでいる。呼び名は違えど、祭りの内容・意義はほぼ同じである。

花蓮縣豐濱郷港口、靜浦、磯崎、新 社、豐濱等5つの部落の海祭「阿美族語「沙滋捕」」は、豊年祭に並ぶ重要な祭りとされており、豊漁、安全を祈願するものである。

豐濱郷のなかでも、「馬庫達埃部落」の海祭は、儀式は最も伝統的で、その規模も最大です。

 

 ≪太魯閣族≫

◎祖霊祭

毎年7月にアワの収穫後に開催される太魯閣族にとっては大切な儀式。

頭目が日時を決定し、その日の夜明け前に、地域の男性全員が祭場に集まります、各人が竹の棒にもち米と豚肉を詰めたものを先祖の霊への供物としてお供えします。お祭りが終わるとお供え物はその場で全て食べ終わる必要があります。そして、最後に火を渡るのですが、これは、先祖の霊と離れる事を意味します。

 ◎感恩祭

太魯閣族の人々は種を蒔く前と収穫する前に、祭司たちが4日間、原生林に籠り、神々に祈りを捧げます。その後、祭りは真夜中の月の出ている日に一日限りで行われます。

 

≪布農族≫

◎射耳祭

毎年4月下旬の月のない時に開催されます。

最大の動物である鹿の耳を供えるのですが、これは、来年の狩猟が豊狩であるように祈願するためです。射耳祭には、男性のみ参加が許されます。

 ◎嬰兒節

毎年6月の満月の時期、その年に生まれた赤ちゃんにネックレスを着用させます。主に、金のネックレスが使われます。これは、子どもたちが金のネックレスのように光輝く存在になるようにという意味があります。

その日は、親戚や友人も宴会に招待され、生まれたばかりの赤ちゃんの布農族の名前を発表し、みんなのお祝いと祝福を受ける日となっています。最近では、教会で行われることが多くなり、日付は毎年6月頃に教会が決定します。

その日は正午から晩餐会が開かれ、夕方には村の女性全員が新生児を抱いて教会へ向かいました。そして、村人たちに子供の名前を当ててもらいます。正解者にはその家族の両親からプレゼントが贈られます。

 

 ≪賽德克族≫

◎播種祭

毎年2月から3月にかけて開催されます。

各部落の長老たちが集まり、司祭の家へ赴き、種まきについての話し合いを行います。種を蒔く時期、種類、量などを話し合います。そして、決められた内容に従って、各部落が種まきを行います。

 ◎祈雨祭

祈雨祭は雨が降らない日照り続きの時の身に行われる儀式です。部落近くの川を選んで儀式を行い、祭司長がその川のどのエリアで儀式を行うかを決めます。

 ◎狩猟祭

毎年 10 月から 11 月にかけて開催されます。狩猟祭は部落単位または近隣のいくつかの部落が共同で行うことがよくあります。狩猟祭の日、収穫物は全員で分け合い、各世帯の人数に合わせて均等に分配されます。

 

 ≪撒奇萊雅族≫

◎巴拉瑪火神祭

この儀式には撒奇萊雅族の悲しい歴史が背景にあります。(詳細は別章にて)

これは伝統的な収穫祭とは異なり、撒奇萊雅族の子孫が祖先を偲ぶ追悼式典です。祭りは日没後に行われます。

この儀式で撒奇萊雅族は本来のアイデンティティを取り戻し、100 年以上も悲しい歴史に悩まされてきた先祖たちを偲びます。

清軍に惨殺された頭目の古穆‧巴力克(Komod Pazik)を「火神」,夫人の伊婕‧卡娜蕭(Icep Kanasaw)を「火神太」として祀り、二人の花棺の火葬式も執り行われます。これは、灰の中から魂が生まれ変わることを願って行われます。なぜなら、撒奇萊雅の人々は、自分たちの民族は火のせいで死に、また火のせいで生きていると固く信じているからです。

毎年10月に撒奇萊雅祭祀広場で「火神祭」が開催され、日没後、前奏曲、歓迎の歌、犠牲の歌、祭典の5段階のプログラムに従って儀式が進み、火の歌、そしてフィナーレとなります。

 「火神祭り」は祭りを通じて亡くなった魂を慰めると同時に、若者たちに部族の虐殺の歴史を伝え、自分達には祖先の苦労と悲しみを乗り越えた血が流れている事を認識してもらうことを目的としています。

 

 ≪噶瑪蘭族≫

◎歳末祭祖

正式名はPlilin歳末祭祖と言います。

通常家族単位で行われ、対象は主に亡くなった世帯主の父方および母方の親族です。旧正月に家族が集まる機会に、先祖を招待して、まるで生きているかのように一緒に飲んだり食事をしたりして、家族全員の健康と安全を祝福します。Palilinとは、祖先を敬い、祖先を崇拝し、平穏を求めるという意味があります。

 

 【刺青】

山に住む原住民はその昔、顔に刺青をする習慣がありました。

男女ともに、額部分に一本、それ以外に、男性は顎、女性は口の周りに刺青をしました。

まず、額の刺青は自分達の部落のマークを現します。違う刺青の人間で、協定を結んでいない部落の刺青をした者が部落内に侵入した際には、侵入者として首狩りの対象となります。

男性の顎の刺青の意味は、男性は一人で首狩りが出来て一人前とされ、それが成人となる条件でした。その証が顎の刺青となります。

女性の口の周りの刺青の意味は、6歳で糸紬、12歳で機織りを女性は習いますが、それらが出来るようになって成人として認められ、その証として口の周りに刺青を入れました。

男女ともに、刺青がなければ、結婚する事の出来なかったそうです。

尚、女性の口の周りの刺青は、部族によって、微妙に形が違います。太魯閣族の場合は、Uの字になっており、これは、死んでもまたこの世に生まれ変わってくる(Uターンしてくる)という意味が込められていたそうです。

日本統治時代に、刺青は野蛮な行為であるとして禁止されましたが、永年の習慣は簡単には無くならず、密かに刺青を続けていた部落もありましたが、日本側は規則を徹底するために取締りを強化し、違反者は、刺青部分の皮を剥ぐという残酷な罰則もありました。

今では刺青の習慣は無くなりました。

 

阿美族豊年祭に集まった阿美族の女性達

 

各部族の写真は、花蓮縣政府原住民行政處より借用