jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 教育改革3 台湾女子教育

「日本における女子教育の目的の中に、良妻賢母的女子教育観というものがあり、これは台湾でも推奨されている。台湾教育会雑誌でもこの良妻賢母については何度も記事が掲載されている。さらに、「健康なる子供は、健康なる母より生まれる」という考えも強く、母親の健康重視と言う点も考慮に入れ、女子体育教育授業を推奨している。それまでの台湾の中上階層の家庭では、女子は纏足をしている者が多く、そのために家に閉じこもっている方が多かったため、運動などとは全くの無縁だった。体育の重要性を訴える事で、纏足を廃止させるというお考えが後藤長官にはあったと思う。」と賀田金三郎は賀田組若手従業員達を前に語った。

賀田は話を続けた。「家庭内における母親の立ち位置は非常に重要で、日本語の普及、日本の文化的考え方を浸透させ、日本精神を理解させるためには、家庭教育というのも大切な教育の一つである。そのため、女子が教育を受ける事によって、将来的に母親となった時に、子供達にしっかりと教育が出来る。母親は家庭内では非常に重要な役割を果たしている。」

この話を聞いていた最年少の森が「僕の家でも母ちゃんが一番強いです。父ちゃんはいつも怒られています。」と言うと、菊地が「俺の家でも同じだ。外では父ちゃんは強いけど、家では母ちゃんが一番強い。」と続いた。集まった他の従業員達も「そうだなあ。」「俺んちもそうだ。」と言った。賀田は笑いながら、「君たちのお母さんは、一生懸命、家を守り、子育てをしてくださっている。お母さんのおかげで君たちもここまで健康に育ったのだから、感謝しなければならんぞ。」と言った。

一方、当時の台湾では、土匪達による被害が各地で続発しており、教育どころではない状態であった。いくら婦人会を活用して女子の教育参加を呼び掛けてもまだまだ女子生徒は不足していた。

そこで、後藤新平民政長官は、各学校長に対し、個別に家庭訪問を行う様に指示した。家庭訪問の最大の目的は、女児を持つ台湾人家庭に対する入学勧誘であった。

まずは、地方に影響力のある台湾士紳達の家庭をターゲットに家庭訪問が行われた。当時は台湾士紳達の間では昔ながら中華思想が根強く残っており、「女子に教育など不要」という考えが強かった。しかし、日本人教師や時には日本人官僚が直接、家庭訪問することで、親は自分達の利益を考え、女児を入学させるという事が始まった。

賀田は「教師や官僚の皆さんの家庭訪問の目的はさらにもう一つあった。授業料の徴収だ。ところで君たちは国語伝習所を知っているかね。」と集まっている従業員達に質問した。「国語伝習所という名前は聞いたことがありますが、具体的には知りません」と菊地が答えた。菊地は賀田組若手従業員の中でも最年長者で、他の若手従業員達の兄貴的存在であった。「菊地君が知らないと言う事は、彼よりも年下の者は当然知らないだろうなあ」と賀田が言うと、全員がうなずいた。

「国語伝習所というのは、明治28年(1895年)に日本による台湾統治が開始された時に、日本政府は積極的な台湾教育政策を実施した。芝山岩学堂における六氏先生事件*1後も、台湾総督府は日本語普及を推進した。台湾総督府初代学務部長の伊沢修二部長は『台湾教育意見書』を発表し、日本による台湾統治での最重要政策として日本語教育を表明し、これに従って総督府は具体的な計画を策定した。

翌年、台湾総督府は『国語伝習所規則』を発布、全台湾における日本語教育の具体的な内容が策定された。台湾の主要都市に14ヶ所の国語伝習所*2を設置し、その周辺地域に分教場を設置するというものであり、西洋教育方式により国語(日本語)を初め唱歌、算数などの教育が実施されたのだよ。

伝習所開校初期は台湾人の就学率は高くなかったが、総督府は無償教育政策を実施し、また台湾人の日常生活の中でも日本語を必要とする場面が多くなり、就学児童は年々増加していった。明治31年(1898年)に公学校に改編されるまで存続していた。国語伝習所では、学費無料というだけではなく、生徒の食費手当も支給されていたのだよ。ただ、ここでも女子生徒に関しては食費手当も支給されず、授業料も自己負担という差別があった。

後藤長官が台湾にお越しになった際には、台湾総督府は完全に財政難に陥っていた。土匪に対する武力行使が続き、その軍事費や、教育費など、総督府は支出が収入よりも大きく上回っていたのだ。そこで、後藤長官は増税を行った。この増税に対しては日本政府からは台湾人達の反感をかって、反乱が起こるのではないかという声もあったが、後藤長官は『清朝時代より台湾住民は重税を課せられており、さらには、官史からは不当な金銭を要求されていたがそれが当たり前の習慣になっていた。故に、この程度の地方税徴収では反乱など起こらない。』と反論された。また、学校運営は地方税から賄われているが、『税収不足のために、教師たちが皆、内地に逃げ帰っている。』という噂も流れたのだが、後藤長官はこれに対しても『一人も逃げて帰るものはおらず、皆、安心して働いている。また、学校も一校も閉鎖していない。それどころか、増えている。』とその噂を打ち消された。

実際、地方税で不足している部分を台湾人父兄が寄付金を出していた。だから、日本人が通う小学校は地方などでは粗末な藁ぶきの校舎であったのに対し、台湾人の子供達が通う公学校は立派な校舎が多い。

この様にして、台湾人の女子教育は徐々に広まっていき、公学校を卒業した女子達はさらなる進学のために台湾全島から台北の女学校に集まって来た。彼女達の事を「留学生」と呼ぶが、当時の台湾の交通網を考えると、地方から台北へ来るのは正に、留学の様な感じだったからだよ。女学校を卒業した者の中からは台湾人女性教師が続々と誕生し、自分達の故郷の公学校の教師となった事で、地方の教師不足問題も自然と解決していったのだよ。

『台湾教育用国民読本』を見てみると、そこには、食事の支度、哀れみ深い娘、纏足、織物、家政等々の女性教化を目指した内容のものが盛り込まれている。纏足の部分では、纏足は行動が不自由・不便で、労働も不可能、災害時に避難困難であると言ったように、何故、纏足は良くないのかも分かりやすく説明されている。

後藤長官は、女性教育の重要性を認識され、そのための政策を実施され全ての子供達の教育の重要性と環境整備をなされただけでなく、婦人会なるものをお創りになり、それまでは『女子は家に居る者』という中華思想を打ち破り、公の場への女性の参加はなくてはならいものである事をお示しになった。

過去の伝統社会の意識改革に成功されたのだよ。」と力説した。

 

後藤新平の教育改革に対しては、決して女子教育には積極的ではなく、台湾人に学校を維持するためのあらゆる費用を負担させたという否定的な意見もあるようだが、今の台湾の教育環境を見る限り、後藤の教育改革が生み出した素晴らしい功績だと言えるのではないだろうか。

 

*1六氏先生事件(正式名:芝山巌事件)

日本による台湾統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。

最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。

その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。

その伊沢の帰国中に事件は起こる。

1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

 

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。

 

楫取道明(山口県、38歳、初代群馬県楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)

関口長太郎(愛知県、37歳)

中島長吉(群馬県、25歳)

桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族)

井原順之助(山口県、23歳)

平井数馬(熊本県、17歳)

 

六氏先生 博文堂 - 臺灣土語叢誌 第八號より

 

*2 国語伝習所一覧

台北国語伝習所(現台北市立太平国民小学)初めて設立された国語伝習所

宜蘭国語伝習所(現宜蘭県立中山国民小学)

基隆国語伝習所(現基隆私立信義国民小学)

新竹国語伝習所(現新竹市立新竹国民小学)

苗栗国語伝習所(現苗栗県立建功国民小学)

台中国語伝習所(現台中市立忠孝国民小学)

雲林国語伝習所(現雲南県立鎮西国民小学)

鹿港国語伝習所(現台中県立鹿港国民小学)

滬尾国語伝習所(現台北県立淡水国民小学)

鳳山国語伝習所(現高雄県立鳳山国民小学)

恒春国語伝習所(現高雄県立恒春国民小学)

台南国語伝習所(現国立台南師範大学附属国民小学)

嘉義国語伝習所(現嘉義市立崇文国民小学)

湖国語伝習所(現澎湖県立馬公国民小学)

台東国語伝習所(現国立台東大学附属国民小学)

 

 

【参考文献】

鶴見祐輔 後藤新平 第一巻 第二巻

竹中信子 「植民地台湾の日本女性生活史 明治篇」

何純慎 「後藤新平と台湾女子教育」

女児の体育に就きて教育家を望む 台湾教育会雑誌第48号 明治39年

高木平太郎 「本島女児の教育に就いて(承前)」 台湾教育会雑誌第71号 明治41年

高木平太郎 「本島女児の教育に就いて」 台湾教育会雑誌第70号 明治41年

台湾教育沿革誌 台湾教育会編

游鑑明 日拠時期台湾的女子教育