jonathanheart’s blog

第一段 台湾の近代化に大きく貢献した盟友 賀田金三郎が語る後藤新平 第二段 東台湾の歴史を巡る旅 花蓮編

台湾近代化のポラリス 新渡戸稲造2 台湾行き決意

 新渡戸稲造の母親との悲しい別れについて話し終えた賀田金三郎。その話を聴いて、自分の生い立ちと重ね合わせ涙する賀田組若手従業員の森。その森を慰める菊地やその仲間達。賀田自身も自分の母との別れを思い出し、悲しい気持ちでいっぱいであった。

台北の夕焼けを眺めながら涙を拭った賀田は、気を取り直し、集まった従業員達の方を振り返った。そしてゆっくりと椅子に座り、お茶を一口飲んだ後、話を続けた。

「新渡戸先生は、農学校ご卒業後、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をされた。

その後、創立間もない帝国大学(後の東京帝国大学東京大学)に進学されたのだが、当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望され退学された。

明治17年1884年)、「太平洋の架け橋になりたい」とアメリカに私費留学され、ジョンズ・ホプキンス大学にご入学された。この頃、新渡戸先生は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっておられ、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となられた。クェーカー派の人達との親交を通して、後に新渡戸先生の奥様となられるメアリー・エルキントン氏(日本名・新渡戸万里子)と出会われた。

お二人の出会いは、新渡戸先生がアメリカで日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントン氏が新渡戸先生をご覧になって告白されたそうだ。

その後、新渡戸先生は札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学し、官費でドイツへ留学された。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)で農業経済学の博士号を取得された。

実は新渡戸先生は、アメリカ留学の際、農業を経済学と結び付けて考える必要性を感じられ、独学で社会科学を学ばれ、新たな学問を創設しようと思われた。しかし、ドイツへ留学された際、農政学が既にゴルツ(ドイツ語版)やブッヘンベルガー(ドイツ語版)により創始されていたことをお知りになった。この間『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿をされている。

帰途、アメリカでメアリー氏とご結婚され、明治24年(1891年)に帰国され、教授として札幌農学校に赴任された。

この間、新渡戸先生の最初の著作である『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得られた。

しかし、日本での生活はご夫妻にとっては精神的に非常に辛い生活で、遂には、ご夫妻共に鬱病を患ってしまったのだよ。

そこで、ドイツ帝国の医師で、明治9年(1876年)に日本にお雇い外国人として招かれたエルヴィン・フォン・ベルツ医師に診察してもらった結果、ベルツ医師から『この病は様々な悩みから発病する。出来るだけ考え過ぎず、悩み過ぎず、興奮し過ぎない方が良い。一番良い方法は、海外へ行って、日本の新聞などの情報から離れる事だ。そうすれば、苛立つこともなくなる。アメリカやイギリスにでも行った方が、貴方の病は早く治る。』と助言されたそうで、新渡戸先生は、奥様と共に、再び、アメリカ西海岸のカリフォルニア州で転地療養された。ベンツ医師の助言通り、通常は5年かかると言われていた病も、1年ほどで回復傾向に向かったそうだよ。この療養中に新渡戸先生がお書きになったのが英語版の「武士道」だ。

アメリカで療養中のある日、突然、時の農商務大臣で、私と同郷の萩出身の曽禰荒助大臣から新渡戸先生の元に手紙が届いた。そこには、『台湾に児玉という人が総督としておられる。今度、後藤さんという人が民政長官となって赴任する事になったのだが、あなたに局長になってもらいたいということなので、行って欲しい』と書かれてあった。

私と新渡戸先生とは、花蓮開拓の際に何度もお会いしたのだが、ある日、一緒に食事をしている際に、その手紙を受け取った時のお気持ちをお話になった事があるのだが、新渡戸先生は『私としては、曽禰荒助という人も知らなければ、児玉源太郎という人も、後藤新平という人も、なんとなく名前は聞いたような記憶はあるが、その程度の方々で、全く知らない人達と言える存在でした。』とおっしゃっていた。

我々は、後藤長官と新渡戸先生は同郷同士なので、その関係で以前からお知り合いだと思っていたのだが、新渡戸先生は、その人生のほとんどを海外と北海道でお過ごしになっていたので、東京方面の方々とはほとんど縁がなく、岩手県人というものの、幼少期に岩手を出ておられ、ほとんど岩手にも縁がなく、時折お墓参りに行く程度だったそうだよ。

それ故に、最初は『本件、どなたかと人違いされているのではないか』という内容の返事をされたそうだ。

また、新渡戸先生が東京へ出た際に、お世話になった叔父様の太田時敏氏は、実父を早くに亡くされた新渡戸先生にとっては、父親同様の存在だった。その太田氏も歳を取り、遠方へ連れていく訳にもいかないとお書きになったそうだ。

すると、再び、曽禰荒助大臣から手紙が届き、そこには、『太田という人は見るからに健康そのもの。あなたの心配には及ばない。だから是非、台湾へ行って欲しい』というものだった。

これに対し新渡戸先生は『親は健康そのものかも知れないが、台湾などに行ったら、私自身の健康が心配なので、御免被る』とお返事されたそうだ。新渡戸先生自身、ここまで言えば先方も諦めるだろうと思っていたそうだが、何と、また曽禰荒助大臣から手紙が届いたそうで、そこには、『台湾はあなたが思うほど不健康なところではない。逆に、健康にいいところだ』という内容のことが書かれていたそうだ。

これには新渡戸先生も『これだけ自分を推してくださるのならば、一つ行って男をあげてみるか。使われてみるか』と台湾行きを決断されたそうだよ。」と言うと、森が「曽禰荒助大臣の粘り勝ち!」と先ほどの涙は何処へ行ったのかと言うほど、明るい声で叫んだ。これに一同は大笑いした。

すると菊地が賀田に対して「社長、先ほどのお話では、新渡戸先生は後藤長官の事をお名前はだけは聞いたことがあるとおっしゃっていましたが、どこでそのお名前をお聞きになったのですか」と質問してきた。これに対し賀田は「新渡戸線がおっしゃっていたのは、先生の同窓で、頭本元貞氏という方がおられるそうだが、この方は、伊藤博文閣下の秘書官をされていたそうだ。その頭本氏にある時、新渡戸先生が『君は東京の本場に居て、色々な人と出会うだろうが、どんな人を偉い人と思うのか、どんな人が目立つのかね』と尋ねられたそうだ。すると頭本氏は『確かに伊藤さんのところには色々な方が集まってくる。伊藤さんの乾分(子分)もいれば、そうでない人もいる。また、名士将軍たちも集まってくる。これらの人達は、一般の人達とは異なり、異彩を放って良い面もあるが、悪い面もある。

そんな中で、内務省衛生局長の後藤新平という方は非常に頭が良く、役人ではあるが、普通の役人とは毛色が違う人だ。確か、君と同じ故郷の人だったはずだ。』と返答されたそうだ。この時、新渡戸先生は後藤新平という名前を知り、記憶に残ったそうだよ」と答えた。

菊地は「やはり後藤長官は、他の人達とは違い、誰もが認める賢人だったのですね」と言い「私たちも後藤長官の様な人にならないとな」と仲間を見ながら言った。すると森が「僕は社長の様な人になりたい。だって、菊地兄が言う賢人の後藤長官が認め、頼りにしたのが我らが賀田社長だぞ。ねっ、社長!」と言いながら賀田を熱いまなざしで見た。

賀田は照れ笑いを浮かべていた。

 

メアリー・エルキントン氏(日本名・新渡戸万里子)

東京文化学園 新渡戸・森本研究所より引用

 

 

新渡戸稲造と妻のメアリー(万里子)

北海道大学付属図書館所蔵

 

【参考文献】

新渡戸稲造 「後藤新平伯を偲びて」

鈴木満 「異国でこころを病んだとき」

松隈俊子 「新渡戸稲造